suinote

ゆるめの日常

言い聞かせ

ブログをやってる理由は、自分だけのための部分を言うと「成長の記録ややったことのなどの振り返り用」「思考の整理・まとめ」「精神のデトックス」などがあった。そして新たに気づいたのは、「自分に言い聞かせる」ことも自分にとっては良い目的になっているということ。

私は常に拠り所なく何か漠然とした不安を抱えていることが多くて、凹みやすい。誰かの言動によっていつまでも凹んでいるというよりは、勝手に自信を失って自己否定感が強くなり、マイナス方向に一直線になる。それまで自分の中にあったはずの意思が(強い志でなく、日常のちょっとした良い思考すら)思い出せなくなる。

だから、日頃何かのタイミングでふと自分の中に生まれた良いことは、ダメになりそうな時に思い出せるよう、この時はこんなことを考えてた、本当は考えられるんだから大丈夫だと言い聞かせられるように、残しておきたい。

ブログに書くか迷っていたりBywordとかTwitterの下書きとかで中途半端になっているものもまだたくさんあるんだけど。そんな中途半端なものでもわりと励みになったりする。

今週の地味なできごと

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今週、腹痛と胃痛と頭痛とだるさと精神やられ、と2、3個くらいの組み合わせで常にあって、地味に苦しかった。あと、体が痛いのでさすがに整体を予約しよう。通っていたのが一度途切れてしまうと、たった一回の予約の電話がどうしてこんなにも億劫になってしまうのか。

この微妙な具合を土日にまでひきずってしまったけど、少々学びがあったのでよしとしたい。

土曜日

だるすぎて、精神的にも不安定すぎて、朝の時点で今日はダメな日だとわかった。経験上。

ちょっと用事があったので済ませて、それ以外はよく覚えてないけど結構寝てた気がする。こういうとき信じられないくらい寝ることができてしまう。以前はそれだけでものすごい自己嫌悪に陥ってたけど、ちょっと踏み込んで頑張ろうとするには何しても効率が悪く前向きになれない日だと、何度も経験してよくわかったので、もうそういう日なのだと受け入れることにした。

あと、良いこととしては、眠くさえなければわりと読書が捗ることに気づいた。起き上がる体力がないから、まあ有意義にできることといえばそれくらいなんだけど。充分寝たら、本を読むようにしよう。

仕方ないのをわかったうえで、自分を責めないで過ごせたので、余計に落ち込むのを防げたと思う。どうせたいしたことができないならできないなりに、一番マシな気持ちでいたい。そのほうが回復も早いと思う。

日曜日

この日も朝起きた時点で完全にぐったりなやつだな‥と思った。けど、金曜土曜と家で塞ぎ込んでいたので、このままでは気分がかなり悪化しそうな気配があった。だるいし落ち込んでるしちょっとお腹が痛かったけど、無理やり体を起こして出かけることにした。近場で。

植物園や公園はちょこちょこ行ってるし、しばらく行ってないお寺に行ってみようと、深大寺に行ってきた。参拝して、名物のそばパンを食べた。そばパンに高菜入ってるやつがおいしい。あとは家の近くのカフェに寄って本を読んで帰った。

ちょっと気分はすっきりしたので、たまってたごみとかダンボールとかまとめたり、捨てるか迷ってたものを捨てたり、久しぶりにご飯を作ったり、雨に濡れた洗濯物を洗い直したり。

気分が少しすっきりしたとはいえ相変わらず腹痛や頭痛はちょっとあったけど、それにしてはまあまあ動けたしダメ気味な具合の日のわりにはそこそこ良かった気がする。引きこもらなくてよかった。

思い切って休むか、思い切って出かけるか

土日で思ったのは、心身の不調でなかなか動く気がない時、思い切って休むか、それでも思い切って出かけるか、この判断は結構大事だなということ。

土曜にがっつり休んだのは正解だった。日曜も、今ままでの自分なら引き続き引きこもって休んでいただろうけど、今回はそうしてしまうと余計悪くなるような気がした。新鮮味がないことで更に塞ぎ込んでしまいそうで。体調がちょっとよくないまま出かけて、結局体は回復してないけど、気持ちだけはわりとすっきりして、家で動く気力は戻ってきた。これは家で寝るような休み方では戻ってこないものだ。そのへんの判断ができるようになってきていると思う。気力が戻って動けるようになったら、気分的に良くなっていく流れで体調もそのうち回復できるんじゃないのかな。

小さなできごとだし、見る人によってはただのしょぼい日だろうけど、今年は自分なりに少しずつマシになっていく過程とか、後の自分の振り返りのために書いておくようにしたい。

ちょっとくらいわがままでいたかった

小さい頃から私はいい子で、親を困らせることがあまりなかったらしい。否定や反対、怒られるのが嫌だったのか、わがままを言ったり逆らうっていう考えが基本的に自分の中になかったのかもしれない。何か希望を伝えることも苦手だった。

なんの取り柄もないから勉強を頑張ってた。勉強は、自分が良い成績をとると嬉しいからだったけど、良い成績をとって気分を悪くする親はいないだろう。

その時その時でリスクがあったり面倒なことが起こるような選択をせずに生きてきた。たぶん、黙って安全そうな場所から動かずにいたり、何かに縛られていることで守られ続けることに甘えていたんだと思う。

初めて就職した会社では、ほとんど意見することなんてなかった。いい子でいて気に入られて、最初は評価されていたのだと思っていたけど、今思えばいいなりになっていただけだった。あの時のいい子扱いされていた自分が、いま付き合いのある人たちに評価されたり価値を見出してもらえると思えない。その時その人の都合の良い人間でいただけ。別に違反なことをしているわけでもないのに勘違いや思い込みで怒られたり嫌味を言われることが日常茶飯事で、反発心を持つだけ疲れる一方で、意思を持つのをやめようと思った。結局、参ってしまったのと、かといってどうしたいのかもわからないまま、何ヶ月も暗いニート生活をすることになってしまった。

今はもう、人が用意した安全な枠の中にいることや人に従い続けるスタンスは取り払いつつあるけど、それは23歳くらいからやっと少しずつ変わり始めた面だ。それまで根付いていたものはなかなか消えないので、今でも自分にとってリスクがあったりちょっとでも冒険的な選択をするとき、すごく怖く感じることがあるし、すごくエネルギーを消費する感覚がある。周りの人がひょいっとやっていることでも、自分はその行動を選択することだけでやたら消費しているような。

そういう、思考や希望をしっかり表に出して行動を選択することを当たり前の感覚としてできていない、身についていないのだ。もう20代後半なのに。それでも、ちゃんと自分の考えもって伝えることを続けていればいつかは慣れてもっと自然な感覚で行動に移せるようになるだろうか。

わがままだと小さい頃は親によく怒られるかもしれないけど、臆さず自分の気持ちを表に出すっていう立派な訓練なんじゃないか、と今なら思う。それをしていなかったから、自分の意思で動くのが、動いた時に起こるかもしれない何かが、怖いんじゃないか。

わがままで大人を困らせてきたことがあまりなかったから、いま、わがまま言っちゃったかもとかこんなに正直に言っちゃって大丈夫だったかなと思うとき、それが他人から見て本当にわがままなのか、正直に言ったことで不快な思いをさせたり傷つけたりするのか、私がそう心配しているだけで実際たいして相手を困らせていなくて問題なかったのか、よくわからない。

いい子のまま大人になったところで、自分を押し殺した言いなりの社会人になっただけだった。そこから抜け出すのは楽じゃない。もし自然に意見して行動できる人間だったら、もやもやしている時間やちょっとしたことでいちいち消耗する行動力をもっと有意義に使えただろうに、とやるせない気持ちになる。

そんなことがあって、今はいい子(子って歳じゃないけど)扱いされるのは嫌だし、もうちょっとわがままでいたかったと思う。普段あまり主張できない私がちょっとくらいわがままかもと思うことを発したところで、他人から見て「普通に意見したね」程度の感覚かもしれない。べつにそれでいいから、できる人は普通にできている、素直に言ったり行動するっていうのを、私も自然にできるようになりたい。