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ゆるめの日常

二着増えて二着減らした

f:id:suito15:20170413021339p:plain:w600 先日、服を二着買って、そのぶん二着処分した。去年のいつくらいからか覚えてないけど、服の総量を増やさないように心がけている。むしろまだ減らせると思うので、減らしたい。

服に関しては、「着ていない」「もう似合わない」を基準に処分してきて、自分にとって無駄なものはもうなくなっていた。だから今回何を処分するか、一着は入れ替えのつもりで買ったからいいんだけど、もう一着は迷った。

結局、春もので結構気に入っていたパンツがあって、暖かくなってきたら使おうと思っていたんだけど、それを手放すことにした。「着ていない」「似合わない」の基準で考えると捨てなくていいものなんだけど、視点を変えてみて、「着るけど、(たぶん)似合うけど、でも、なくてもべつに困らないのでは?」と問いかけてみると、結構すんなり決めることができた。パンツは本数的には充分持っているので、その中で、季節の事情や着回しやすさ的に使用頻度が少ないものなら、一本くらい減っても特に問題はない。

「なくても困らない」は、服を処分する基準としては今まで自分の中になかった。こうして新しい判断基準ができるくらいには、服を減らせて、服の所持具合がベストな状態に少し近づいたのだと思える。外出時の服選びが確実に楽になったし、無駄遣いもなくなったし。もっと気持ち良い状態にしていきたい。

やること

ものづくりをしてる人たちは日々どういう感覚で生きてるんだろう。

雑誌に載ってなくても、ネットで有名じゃなくても、ものづくりをしている人やしたい人は数え切れないほどいると思う。フォーカスされやすいのは、都心だったり、知名度のある会社だったり、露出のある人たちだったりするけど、その人達がものづくりをしている人すべてではない。見えていなくても、生み出す人はもっともっとたくさんいる。

ある物事を通して何を提供したいとか、世の中をこうしたいとか。そんな、自分の信念を持っていたり公言してる人、そうでなくひっそりとでもしっかりぶれない自分の軸がある人たちって、どれくらいいるのだろう。全国のものづくりする人の中でもほんの一部なんじゃないか?と思う。だって、それを見出せないから、多くの人が若いうちに現場を去っていくんじゃないだろうか。

ただ単に、「つくる工程が好き」って感覚だけでは、いずれ気持ち的にやっていけなくなるかもしれない。最初は楽しくても、仕事をくれた人への感謝も込めて貢献したくて夢中でやっていても、いずれ慣れてきて少し余裕ができて、違う視点でも物事を考えるようになってくると、「これって本当に世の中に価値を生み出しているわけではないのでは?」と気づいてしまう時が来たりする。そんなとき、自分はなんでこれをやってるんだろう、と価値観がぼんやりして濁ってくるかもしれない。というか、実際に2015年の自分がそうだった。その濁ったものは、当時から今にかけて、少しずつ薄くなってきてはいる。

私は、大人数でドカンと大きいことをしたいという気持ちがあまりなくて、今は、人に対して少しでも前向きな行動の後押しができるようにりたいとか、良い発見を人に伝えたいとか、喜んでもらったり安心してもらうとか、誰かにとってさりげなく役に立つような生き方がしたいと思っている。個人や少人数で、自分の目が届きコントロールできる範囲でやりたい。無理のない具合に。時期によって例外はあるけど、基本は無理なく、が前提だ。今まで何度も潰れかけたから。正直キャパシティがそんなに大きくないので、広げることも大事だとは思うけど、それにしたって個々の性質ってものがあるし、なんかもう向き不向きが分かれるようなことに無理矢理突っ込んでいかなくていいかなと最近思い始めている。潰れるよりも、小さくでも確実に生きていけるほうがいい。そういう軸のようなものが見えてきたのは良いことだと思う。

ちょっと脱線してしまった。
でも、そういう気持ちはあるものの、具体的に何を用いてそういう良いことをやるのかっていうのはまだ曖昧なままだ。可能性として、デザインをやめずにWeb方面で続けてみる(→転職)ことにしたり、ブログも続けてみることにしたり、やめようかと思っていた絵もまた描き始めた。自分に合っているかもしれなくて、何か見出せるかもしれないのがこの辺りだと今はなんとなく感じているから。そういう気持ちがなかったら今頃社会的に死んで、実家でまたニートしてたかもしれない。

今やっていることが自分にとって正しい選択なのかわからない。もしかしたら本当は合ってないものがあって、別のことをやったほうがいいってことも出てくるかもしれない。それが本当に納得いくことなら、その時は、今まで積み上げてきたものに縛られないで思い切って捨てたり、乗り換えられるかな。少なくとも、3年くらい前よりは、そのへんの判断力は上がってると思うけど‥。

人と接して、アンテナを張って、情報を集め続けて、取り入れて考えて行動していったら、いつか自分にはコレだ、みたいなのが見つかるのかな。見つかったらいいな。


なんとなく、こういう話を書くのは抵抗があったんだけど、最近しょっちゅう頭の中に浮かぶので書いてしまった。若い頃から豊富な経験をして自分自身と向き合って考えながら「つくる」力を積み上げてきたり自分の意思で進んできた人と違って、私は、20代後半でやっと自分で歩き始めたというか、土台を作ろうとしはじめたばかりの人間だ。だいぶ遅れて歩き出したことに対する虚しさのような劣等感のようなものがずっと拭えないでいるけど、それまでのことが無駄じゃなかったと思えるような、「つくっていない・何も生み出していない」時代の出来事も全部含めて自分の今後の経験に活かして、これでよかったんだと思えるようになりたい。なりたいというか、ならないと、一生報われないと思う。これからやることには、今までの経験とか考えとか好きなこととか、遠慮なく詰め込んでいこう。

居場所

少しでも安らげる自分だけの居場所がほしい。家とか温泉とかそういう実在する場所じゃなくて、精神的な居場所というか、心の拠り所というか。ものすごくフワッとした希望だ‥

大好きな友達や恋人と一緒に過ごす嬉しさとはまた別で、一人の場所。自分は死ぬまで自分と付き合っていくわけだけど、自分以外の人に居場所を求めて安らぎを得ても、相手はいつでも、いつまでも一緒に居られるわけじゃないから、そこを拠り所にしてしまうのは怖い。だからこういう希望を、一人であること前提でしか考えられないのだ。

実在しない場所となると真っ先に思いつくのは、まあネットかなと思う。でも、SNSは今はほぼオープンな状態で使っていて、それではあまり意味がない。いつも歩いている公共の場が同時にネットにも存在していて、そこを行き来しているような感覚だから、自分だけの居場所っていう感覚はない。知っている人がいなくて、コミュニケーションをあまり意識しないところで淡々と何かしているのが良いかもしれない。今のところブログにコメントできないようにしてるのも、なんとなくそういう気持ちが関係しているからだと思う(コミュニケーションとらなくても、好きで見てもらえることはすごく嬉しい)。匿名で発言できる場所では、その時その時の感覚や感情を都度捨ててしまうようで、自分自身と自分の居場所を作り上げていけないから使っていない。

何かこれといった自分の信念みたいなのがあれば、それを軸に安心して進んだり休んだり生き抜いていけそうだけど、残念ながらまだそんなものは見えていない。というか、見えてない人っていっぱいいると思うけど、日々どうやって自身の感覚と向き合ってるんだろう。