考えごと2017
2017年(2016年あたりからかな)の考え事のメモを色々整理して、ためっぱなしもあれなのでいくつかここに書いておく。あくまで個人の考えです。
わざわざ決意せずとも自然な気持ちでやり始めることが自分にとってよかった
- 退職 転職 断捨離 一人暮らし など
- やらなきゃ!って意気込むよりも、「あ、そろそろだな」みたいなかんじで自然に動き出した
- 大抵しっくりくる結果になる
- たぶん、消去法で次の行動を選ぶとそうするしかなかったんだと思うけど
漠然とした不安感を抑えるにはどうしたらいいか
- 娯楽に逃げて現実をおろそかにしない
- 娯楽は大事。楽しさやインプットなどで仕事との相乗効果が生まれる
- ただ、目的を「逃げ」に振り切ると、現実に戻る時のダメージがでかすぎる(そこにヒヤヒヤしながらの娯楽:不安感)
- 本業や趣味など生産的なことを楽しむ
- 単純に不安感を忘れていられるし、逃げではない
- 自分がやったことで承認を得られると嬉しい
- 自己満足系も楽しいが、人の役にたつものも取り入れると尚よし(貢献感)
- 社会的な繋がりを得ることを意識する
- 情報収集を怠らず自分に活かしていく。SNSの見すぎで病まない程度に
良心を捨てたほうが生きやすい
- 性格悪い人のほうが生きやすいと思う。面倒ごとは誰かに押し付ければいいから(「生きやすい人=性格悪い」ではないので誤解のなきよう…)
- 良心のある人がその押し付けによるストレスを受け疲弊するのに気づかず「モチベーションが低い、覇気が足りない」とか言うのもどうかと思う
- 良心を捨てたほうが生きやすいのだろうとは思うけど、だからと言って人をぞんざいに扱う悪い人間にはなりたくない
- 良心を捨てない人が生きやすくなるにはどうしたらいいのかはわからないが、とりあえず、まずは死なないために逃げることくらいはべつにいいだろう
頑張ろう、頑張らなきゃと思うことは頑張れない
- 淡々とできることだけが、長続きする
- わざわざ意気込まずに自然とやっちゃうことだから続くのも当たり前か
- もちろん締め切り前とか転職活動とか、日々いろんな状況があるわけで、頑張りどきはたくさんあると思う
- ただ、やること全部、四六時中、頑張るってわざわざ奮い立たせるのは無理してる感じがあるし、基本的には淡々とできて続くことが、自分に合うことなのだと思う
サッパリと過ごす
- 自分がもっとサッパリしてれば、良い友達になれるかもって人いるなぁと思う
- イラッとすることを言われても、気軽に言い返せる
- 私もイラッとさせる発言しちゃうことあるし、そこで向こうも私に気軽に言い返せたら、後味の悪いモヤモヤが残りにくい
ほしい
- スキルよりも熱意とか気軽さ好きな気持ち
- 行動力
- 決断力
- それらがあればスキルなんて勝手についてくる
遊び心が足りない
- 絵を描く時、デフォルメはかわいいし、肩の力を抜いたような線で描きたいのにどうしても正しい形に寄せようとしてしまう(上手いわけではない)
- デザインも、そういう意味での柔らかさが足りない、真面目になってしまう
- いろんな制作に現れてしまう
- 写真を見てクロッキーやスケッチをすることが多いけど、最近はチョークアートを参考にしたり、写真をそのまま模写ではなく見たものをアレンジして描いてみる練習も始めた
- もっと柔らかくやっていきたい
いい状態になってみると、維持したくなる
- 断捨離して部屋のリバウンドしなくなった
- 慢性的な不調を結構改善した
- 多少面倒でもやってみて、少しでも成果が出ると維持しようと引き続きできていた
- ここ数年でそうやって徐々に身の回りのいろんなことをよくしていけてる気がする
- 引き続き良くなりたい
自分を好きになれないと他人を好きになれない、ということについて
- その感覚がわかるようになってきた
- 自分がきらいだと他人に嫉妬してしまう
- 今は、自分を好きとは言い難いが、好きな部分や信じられる部分はある
- そのおかげで他人に嫉妬しにくくなったし、純粋に人の良い面を良いねって思えるようになった
褒められるとやる気が出る?
- たぶん褒められて嬉しいから、もあるが、褒められることによって、やってよかったと安心できる
- 反応がないと、ダメなのでは・無駄なのでは、という思考から不安になる
- やる気をなくすのとは違う気がする
- 自分がやったことがよかったのか、意味があったのかを知れるとよい気がする
- そうすることで、次のアクションとか、何かしら思案することができる
狭い場所にいること
- 1つのコミュニティに縛られるのは危険。視野が狭くなる
- そこで、ダメ人間のレッテルを貼られると本当に自分がダメだと思いこんで育ち自信がつかない
- 他のコミュニティに顔を出してみると、「それくらいできるなら自信持て」と言われる
- 親が過保護:あなたが心配だから(できない人間だから)という理由できっと自信つかない
- でもそのコミュニティの人が悪いとは言い切れない。その人もまた、狭い世界で生きてきたからそういう接し方をしてしまうのかもしれない
まあ人生いろいろあるよねーってかんじでした。おわり。
平成最後の日記を
書くつもりはなかったけど、なんとなく書くことにした。
平成元年に生まれて、平成の流れとともにここまで来た。元号が変わるのね、くらいに思っていたけど、いざ平成が終わるとなるとなんだか少し寂しく感じた。そういえば、「今平成何年だっけ」と思った時に、自分の歳を基準に思い出すことができなくなるんだな、などと思ったりもした。
正直、生きててつらかった。このブログや、他所でも書いているので、ご存知の方もいるかもしれないけど。実家に帰ろうかとか、死んだほうがいいのかとか、何度考えたかわからない。でも、自分なりに生活や思考などの改善を試みたり、治療を再開したりして、最近は精神的に安定してきて、まあなんか死のうとせずに実家に帰ることもなく生きている。
そろそろ十連休の四日目が終わろうとしている。例年なら、「あぁもう四日目が終わってしまう、何もしてないのに」「あと六日もあるからいいか」などと考えながらぼんやり過ごしていたはずだ。今年は少し違う。一日目はダウンしていたけど、それ以降は、重い腰をあげて行ってみたかった場所に出かけて写真を撮ったり、Blenderの練習をしたり、ちょっとやってみたいことがあってそれのレイアウトをしたり、少しだけ絵を描いたり、ぼちぼち掃除をしたり。他にも手をつけたいことがいろいろ。ペースは合格点には遠いものの、今回の連休は一応動けている。
動けているのは、心身の調子が格段に良くなっているからだ。毎日好調というほどでなくても、これまでよりはぐずぐずせず起き上がって生活している。これが所謂「普通(大多数の性質)」ということなのかもしれない。と思うと、普通に生きてこれた人が羨ましい。しんどかった日々にデリカシーがないタイプの人に「気合いが足りないんじゃない」と言われたのが悔しい。自分だって普通の性質や状態だったらこんなにしんどくなかったはずだ。
と、嘆いていても仕方ないので、今はひとまず平穏に過ごせている連休を嬉しく思っておこう。ゆっくりではあるけど、何もせず後悔する過ごし方にはなっていない。一人で過ごしていると油断しそうで不安だけど。よしなにやりたい。これでも一応人生よくなってきたよね、できるようになってきたよねと思いながら。
本当はまだ作業したいけど、この心地よい眠気を乗り越えるとそのまま眠れなくなりそうだし、健康的なスタートで令和とこんにちはしたいので、早めに寝ることにしよう。
平成の間、お付き合いいただきありがとうございました。
令和もよろしくおねがいします。
そういえば、名刺的サイトみたいなのを最近リニューアル(というほどでもないけど)しました。絵を入れてみたりしました。
それでは。
suirium
吊り革について
電車内の吊り革の位置が高すぎて、背が低めの人には届かなくて危ないといった話題を見かけたことがずっと頭に残っている。
自分は身長的には平均くらいで基本的には吊り革には届くのだけど、立ち位置によっては吊り革を掴めないので、たしかにそういう時は不安を感じることもある。朝の満員時はトラブルが多く急停車は当たり前だし。
ただ、最近見かけるようになった低めの吊り革も若干こわかったりする。隣の人が、降りることを意識するあまり吊り革付近の人を考慮してくれなかった場合、手から離れた吊り革が揺れの勢いで他人の頭に直撃する。自分も何度かあった。怪我をするほどでもなく頭だったからよかったものの、眼鏡がやられたりしたら非常に困る。自分の本体は眼鏡なので。
とはいえ、怪我をしない程度に吊り革に直撃される私の頭よりも吊り革に掴まれない人が転倒してしまう方が懸念なので、低めの吊り革の存在に反対はしない。そんなことよりもまず、吊り革を掴む人には、周囲の人にぶつからないようにそっと手を離すなどの配慮をしてほしい。
言うからには気を付けてますよ自分も。
以上です。