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ゆるめの日常

ちょっとくらいわがままでいたかった

小さい頃から私はいい子で、親を困らせることがあまりなかったらしい。否定や反対、怒られるのが嫌だったのか、わがままを言ったり逆らうっていう考えが基本的に自分の中になかったのかもしれない。何か希望を伝えることも苦手だった。

なんの取り柄もないから勉強を頑張ってた。勉強は、自分が良い成績をとると嬉しいからだったけど、良い成績をとって気分を悪くする親はいないだろう。

その時その時でリスクがあったり面倒なことが起こるような選択をせずに生きてきた。たぶん、黙って安全そうな場所から動かずにいたり、何かに縛られていることで守られ続けることに甘えていたんだと思う。

初めて就職した会社では、ほとんど意見することなんてなかった。いい子でいて気に入られて、最初は評価されていたのだと思っていたけど、今思えばいいなりになっていただけだった。あの時のいい子扱いされていた自分が、いま付き合いのある人たちに評価されたり価値を見出してもらえると思えない。その時その人の都合の良い人間でいただけ。別に違反なことをしているわけでもないのに勘違いや思い込みで怒られたり嫌味を言われることが日常茶飯事で、反発心を持つだけ疲れる一方で、意思を持つのをやめようと思った。結局、参ってしまったのと、かといってどうしたいのかもわからないまま、何ヶ月も暗いニート生活をすることになってしまった。

今はもう、人が用意した安全な枠の中にいることや人に従い続けるスタンスは取り払いつつあるけど、それは23歳くらいからやっと少しずつ変わり始めた面だ。それまで根付いていたものはなかなか消えないので、今でも自分にとってリスクがあったりちょっとでも冒険的な選択をするとき、すごく怖く感じることがあるし、すごくエネルギーを消費する感覚がある。周りの人がひょいっとやっていることでも、自分はその行動を選択することだけでやたら消費しているような。

そういう、思考や希望をしっかり表に出して行動を選択することを当たり前の感覚としてできていない、身についていないのだ。もう20代後半なのに。それでも、ちゃんと自分の考えもって伝えることを続けていればいつかは慣れてもっと自然な感覚で行動に移せるようになるだろうか。

わがままだと小さい頃は親によく怒られるかもしれないけど、臆さず自分の気持ちを表に出すっていう立派な訓練なんじゃないか、と今なら思う。それをしていなかったから、自分の意思で動くのが、動いた時に起こるかもしれない何かが、怖いんじゃないか。

わがままで大人を困らせてきたことがあまりなかったから、いま、わがまま言っちゃったかもとかこんなに正直に言っちゃって大丈夫だったかなと思うとき、それが他人から見て本当にわがままなのか、正直に言ったことで不快な思いをさせたり傷つけたりするのか、私がそう心配しているだけで実際たいして相手を困らせていなくて問題なかったのか、よくわからない。

いい子のまま大人になったところで、自分を押し殺した言いなりの社会人になっただけだった。そこから抜け出すのは楽じゃない。もし自然に意見して行動できる人間だったら、もやもやしている時間やちょっとしたことでいちいち消耗する行動力をもっと有意義に使えただろうに、とやるせない気持ちになる。

そんなことがあって、今はいい子(子って歳じゃないけど)扱いされるのは嫌だし、もうちょっとわがままでいたかったと思う。普段あまり主張できない私がちょっとくらいわがままかもと思うことを発したところで、他人から見て「普通に意見したね」程度の感覚かもしれない。べつにそれでいいから、できる人は普通にできている、素直に言ったり行動するっていうのを、私も自然にできるようになりたい。