suinote

ゆるめの日常

不安と一緒に

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不安を敵だと思わずに、受け入れられるようになってきた。私はヘタレだから不安になって、不安だから前に進んだり決断したりできないのだと少し前まで思っていたのだけど、ちょっと違うと気付いた。

ブログやTwitter、インタビューなど、今はインターネットのおかげで色々な人の考えを気軽に知ることができる。成功している人や素敵だと感じる人、思い切った選択をした人などの記事や発言を見ていると、不安だったとか、不安もあるけど、といった内容が目に入る。独立や企業、そういうわけじゃないけど一旦会社を辞めるとか、なんでも自信と勢いだけで選択できるわけじゃなくて、不安はつきものなんだなと。

そういうことを知ると、不安という感覚は私がダメな人間だからとかそういうわけじゃなくて、何か未知のことに触れようとしたときに自然に表れる副作用のようなものなんだろうなと感じるようになった。だから不安を感じた時、必要以上に凹まないで「不安なのは当たり前で仕方ないものだ、それを受け入れながらやればいい」と思って、ほんの少し落ち着いて動けるようになった。

もちろん、慣れと共に不安は薄れていくので、程度は経験値によって変わると思う。私は仕事やそれ以外の行動面というか、人生出遅れすぎという自覚はあるので、周りよりも物事に対して不安が大きく躊躇することは多いと思う。それでも、やってみようと選択することは確実に増えているので、少しは前に進んでいるということは自分でわかる。一応。

先月、今までだったらパスしたり不安すぎてものすごく決断に時間のかかりそうなことを4件ほど、わりとサクッと決めて動くことができた。そもそも恐ろしい用事じゃないと知っていたし、当然何も問題なく済んで、動いてみてよかった。こういうことを繰り返して小さな不安は薄れていって、鍛えられていって、少しずつハードルを上げて大きなことに向き合えるようになる気がする。

というか今年、すでに大きな不安を抱えているけど、それなりの対処をしたうえでも消えない不安はどうしようもないと諦めがつくし、進もうとしていることでもあるし、不安を敵視しないでいけたらいいな、と思っている。悪者ではなく、つきあっていくべき自分だから。

マンションと猫

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かなり前のことなんだけど、仕事帰りにマンションのエントランス前に来たところで、中に猫がいることに気づいた。「私のスペースよ」というかんじでピタッと止まっていらっしゃったのでどうしようと少しの間その場に立ち尽くして猫を見つめていたら、察してくれたのか外に出てきてくれた。なんとなく意思疎通できた気がしてちょっと嬉しかったのと、絶対に伝わらないけどなぜか会釈してしまった。猫に会釈することってなかなかないと思う。

選択

自分を不幸にしかしない、どうしようもない環境(会社に限らず人間関係色々ひっくるめて)に所属しているとして、さて自分はどうしたら?と思ったら、選択肢は以下の三つになる。

  • その環境から離れる(リスクが高い場合もあるが、状況を良くする可能性が見出せる)
  • 自分が改革する(立場的に下であればあるほど難しいし、自分を不幸に追い込むような場所で改革がんばろうと思えることは稀だと思う)
  • そのまま我慢し続ける(これからもひたすらつらいだけ)

昔は我慢し続けるしかなかったけど、今はその環境から離れるという選択ができるようになった。選択肢を天秤にかけて、どれが自分にとって一番良いか、一番マシかを考えられるようになった。「そのまま我慢し続けるくらいなら死んだ方が本当にマシだ」と思うようになったので、だったら、死ぬよりはいいかもしれないな、と。たぶん、そこまで追い詰められないと中途半端に迷って、今でも我慢し続けるままの人間だったかもしれない。

生きていると、気づかないうちにいくつもの選択肢が表れる。そこから離れる、自分が改革するというのも選択。次の一手を先送りにすればするほどただひたすら辛い状況を我慢することになる。それも、どうするかの判断を先送りにするという選択か、そのまま我慢し続けるという選択になる。

放置したり応急処置で済ませているだけでは状況は変わらない。選ぶための基準を作ってみるとか、自分でまず何か考えようとしない限り次の行動に繋げるのは難しい。と思う。