suinote

ゆるめの日常

NOと言えるようになってから少し楽になってきた

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十代の頃からずっと「嫌だ」「断る」「無理」などの主張ができなかったけど、やっと、だんだん言えるようになってきた。仕事に限らずプライベートもいろいろな面で。

純粋に嫌だという気持ちの問題だったり、単純に都合(無理に詰め込んで自爆しないための調整)だったり、自分にとってプラスになるような良いことなのかの判断のうえだったり、素直に正直に。

いろいろやってみることはいいけど、永遠になんでも受け入れていると自我が育たなくて振り回され続けてつらい状況から抜け出せなくなる。

以前は「なんで私だけ」と自分の不幸さに卑屈でいたけれど、そういえば昔からずっと周りよりも一段と何かを引き受けたり受け入れたりするタイプだったように思う。親切のつもりの時もあったけど、大半は親に否定されること、先生に怒られること、友達に嫌われたりいじめられたりするのが怖かったというものある。それは親との距離感、ネチネチした厄介な先生、転勤族なことによる転校などの影響もあると思う。

でも大人になると、大人の世界に放り出されると、誰かが守ってくれるわけじゃない。人を都合よく利用してくる社会は容赦ないし、無自覚にいつまでも振り回してくる人もいる。大抵向こうも悪意はなくて良好な関係を築いているつもりで接してくるから、こちらが主張しない限りしんどいことに気づいてもらえない。だれも助けてくれないし、昔の環境を言い訳にしていてもどうしようもなくて、ストップをかけられるのは自分しかいなくなる。まあ助けてもらえることもあるにはあるんだけど、あくまで運だったり助かる可能性の一部でしかないので、あてにするべきではない。

このままだと一生使い倒されるだけの人間になってしまう、となり危機感が出てきて、少しずつNOという勇気を持ち始めて、実行できるようになってきた。いまは無職なので仕事が詰まりすぎててヤバイから〜みたいな状況には活用できてないけど、その他の面にはおいては不毛な思いや過剰に気疲れすることが減って、精神衛生が向上している。

できるようにちょっと気持ちいいし、以外と問題なかったりする。なぜそれまでこういうスタンスでいられなかったのか不思議なくらいだ。NOと言ったせいでそれで関係が悪くなっても、価値観が合わないんだから離れて正解だし縁がなかったと割り切ればいい。好きな人や大事な人と良い関係でいられたら充分で、万人を意識して好かれる必要なんてないのだ。

自分が外から何かを受け入れることができる量には限界があると痛感しているので、身の回りのこともちょっと強い気持ちで整理していかないと。

冷えと寒さと物

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手が暖かい時にお腹に手を当てるとお腹に優しいかんじでちょっとホッとするけど、大抵保冷剤のように冷たいので害になる。

厳しい時はカイロを使っていて、あまり経済的ではないので腹巻を買おうかなと思う反面、衣類を増やしたくない気持ちもあってまだ買っていない。肌着とか、必要なものをヒートテックに置き換えるとかその程度。

なるべく物を増やさない生活がしたくても、なんだかんだ冬は体のことを考えると妥協しないといけない場面もあって、悩ましいところ。電気毛布、布団乾燥機、電気あんか、ストーブ、加湿器、ケトルなどなど…。そのうち所持しているのは今は足元用の小さいストーブだけ。電気あんかは電源切り忘れが多くて不安になったので手放してしまった。

物の取捨選択、判断力が常に試されていて、戦いだよなぁと思う。最近ちょっと家の中がなんとなく停滞している感が出てきたし年末も近いし、大掃除の準備も兼ねて意識的に断捨離するフェーズに入りたい。

ていねいに暮らさない

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断捨離をして、衣食住など生活に関することに興味を持ち始めてから、「ていねいな暮らし」に憧れていた時期があった。きちんと整理整頓された生活雑貨、素敵な家具、お洒落なディスプレイ、優雅なティータイム、いいなぁ…と。思っていたけど、もうそれを目指すのはやめようと思った。

そういう空間で過ごすともちろん気分がいい。でも、身の周りのことをしっかり整えて、お洒落っぽい生活をするために、私の場合それ以上に時間もお金も精神も消費してしまうということに気づいた。

平日は仕事から帰ってきてさっとご飯を食べてお風呂に入ったら、勉強したり趣味に時間を費やしたりしたい。休日は疲れをリセットするために、ごろごろ休んだり出かけたり平日にできなかった分のアレコレをやりたい。これだけで日々いっぱいいっぱいだった。そこに満足いくレベルまで生活をていねいに整える時間がどこにあるというんだ。いや、やろうと思えば不可能ではなくて、「ていねい」をねじ込むことはできるんだけど、ねじ込むということは自然な行為ではない。どこか無理していることになる。

更に、私は極端に面倒くさがりやだ。いま時間のある無職であるにもかかわらず、色々整えない結構雑な生活をしている。時間があってもやらないということは、もう完全に性に合わないのだ。「面倒くさいしとにかく楽したい」という感覚が、「ていねいな暮らしによって得られるメリット」を超えている。

私にとってのていねいな暮らしとは、あくまで自分が心地よく過ごす(精神衛生向上のため)の手段のはずだ。それなのに、そのために合わないことをやって消耗するほうが大きいなんてどうかしている。

そもそも私が断捨離をしてから物を増やさない生活を心がけている理由の一つとして、「楽したいから」というのはかなり大きい。物を減らしてから、掃除はしやすいし整理も楽になったし(整頓はあまりしない)、この楽さがとても大事なのではないか。

と、ここまで書くとただただがさつな人間と思われるかもしれないけど、それだけじゃなくて、私は感情や思考などメンタル的にキャパシティが大きくないので、少しでも余裕が欲しいのだ。物が少なくて整える必要すらないということは、物に向けるべき意識も必要ないということであって。削れるところは削って楽をすることで、自分をそれなりに保つことができる。

もちろんていねいな暮らし自体をバカにしたり否定しているわけではない。それを純粋に好きで楽しんでやっていたり、プラスになっているならば本当にその人に合っているのだろうし、素敵だし、正直羨ましくもある。ただ、表面上の軽い憧れのような気持ちでやるには、無理が生じる。私には合わなかった。

ていねいな暮らしはできない、かといってめちゃくちゃな部屋で過ごすのも苦しくて無理な私は、少ない物で楽な暮らしをするのがきっと一番いい。そう気づいてから、そこは気を張らなくていいんだと思えて、少しだけ気持ちの余裕が生まれた気がする。